前回は、親魏倭王印についてお話しました。親魏倭王印 は既に盗掘されて何処かに紛れ込んでしまったのでしょうか、海の底に沈んでしまったのでしょうか、はた又、溶かされて姿を変えてしまったのでしょうか。いろいろ考えられますが、やはり必ず眠っていると思いたくなります。日本の何処かに眠っているとすれば、このテーマと切っても切れないのが、卑弥呼の墓です。今回はこの問題についてお話をします。
皆さんは学校で、古墳時代は四世紀からと勉強したと思います。ところが戦後の発掘ブームや、副葬品の年代測定方法の発達によって、現在の考古学では、三世紀は既に古墳時代に入っていたとする考え方が定説となっています。この事に関してはかなり専門的な知識が必要ですのでここでは省略します。卑弥呼の時代は三世紀中葉(卑弥呼の死は正始八年・西暦248年前後が定説)と考えられますので、一応古墳時代の初期と考えてよさそうです。(この問題に関しては、軽軽に時代を修正すべきではないとして納得しない学者もかなりおられますが・・)古墳は当初、円墳から始まり、その後我が国独特の前方後円墳に発達したと言うのが定説です。したがって卑弥呼の墓は時代的にみても、又径百歩の表現から考えても、円墳であろうと一般的に推測しています。以下卑弥呼の墓に関する専門家の議論をお話します。
先ず、卑弥呼の墓は、『大いに冢( ちょう)を作る、径百余歩』と表現されています。どの程度の大きさなのでしょうか。ここにも、百歩は大きいと言う意味でありこだわる必要はないとしたり、中国的な誇大表現で5〜6倍に表現されていると言うグループと、一歩の長さを議論して、径180メートル、150メートル、70メートル、30メートル程度まで、これまたさまざまな大きさで解釈されています。全体的には自説に都合の良いサイズにしている傾向があるように見受けられます。
普通は墳墓と言うのが一般であるのに、墳と言わず冢と表現していることに注目している専門家も居ます。諸葛孔明を葬った記録から、墳は山であり、その山上に冢を作った、その大きさは棺が入る程度のものである、したがってそれ程大きな物ではない。大きいという意味を含めても精々20〜30メートルであろうとしています。以上のごとく大きさに関しても中々纏まりがつきません。したがって卑弥呼の墓の候補地もかなり自由度のある感じです。
この三世紀中葉からの古墳のレベルがいかなる程度であったかは、専門家の間でも色々な考えがあり、前方後円墳出現時期すら意見のおおいに別れるところです。我が国最古の前方後円墳と言われている古墳が奈良大和にある『 箸墓古墳』(はしはかこふん)です。この古墳は、初期の構築時点では円墳であったと言う説があり、以前から多くの専門家が注目しています。また大分県宇佐神宮の『 亀山』もかなり注目されています。何故注目されているかの詳細は、多くの書籍に細かに説明されていますので省略しますが、簡単に言えば、祭られているといわれる人物が、記紀に登場する人物で、いずれも卑弥呼にたとえられる人物だからです。詳細は6章で行いますが、卑弥呼は、天照大神(あまてらすおおみかみ)に、以下の二人を加えた3人のいずれかであろうと言われておりますので、極めて注目されるところです。
箸墓古墳は倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ、と読む)の墓で、第九代天皇の開化天皇の叔母といわれる人物を祭ったものと言われております。(異説あり・・崇神天皇説もある)円墳の部分がおよそ157メートルの巨大古墳です。また亀山は、神功皇后(じんぐうこうごうと読む)と他に応神天皇、比売大神の合計3神が祭られていると言われています。
邪馬台国豊前宇佐説は宇佐神宮を中心とした有力な説の一つで、その中心が神功皇后卑弥呼説です。神功皇后は第十五代の応神天皇の母で、勇敢な女傑として記紀に書かれています。この二つのどちらかが卑弥呼の墓なのでしょうか。勿論上記二つの古墳に対して、それぞれの立場から、否定している方々は多く存在します。またその他に、天皇陵と言われている数々の古墳群も多くの学者が注目していますが、宮内庁は皇室に関係するこれらの発掘を認めません。学者ならずとも、是非近い将来発掘してほしいものと思います。皆さんいかがでしょうか?
宮内庁が管轄しているこれらの古墳群が、調査される時が、邪馬台国論争を終焉に導く時かもしれません。